(4)
10月に入ったというのに夏に逆戻りしたような快晴の暑い日曜の午後だった。
猪の首村にヤスオと健一が来た。
「こいつさ、夏泳がなかったから、今頃泳ぎたいって言うんだぜー」
ヤスオが健一を指して笑った。
「海に入るの嫌いじゃなかった?」
トリトンの問いに、あっという間に海水パンツ1枚になってめがねをはずしながら健一が言った。
「・・何事も経験・・。二人がいれば大丈夫だと思うから、泳いでみる。」

健一は初めて海に入った。はじめ、水の冷たさに飛び上がったが、徐々に慣れていき、トリトンとヤスオに交互に手を引かれ、バタ足をしながら懸命に泳いだ。
「これをつけて海の中を見てみろよ」
トリトンはミツコから借りてきた浮き輪を健一に持たせ、水中眼鏡をつけてあげた。
「わぁ〜〜・・」
初めて見る海の中、自分の足の下を小さな魚が群れになって泳ぐ様子に健一は不思議な感覚がした。
その魚たちのあとを緑の髪の少年が水に溶け込むように自由自在に泳ぎまわっていた。やがて彼は何か海の底に見つけたように深く潜っていった。
(夢見てるみたいだ・・。僕、忘れないよ・・ずっと・・)健一は思った。

          

「楽しかったなーー、トンちゃんって魚みたいに泳ぐんだな!びっくりしたよ
。あの光る石、僕の宝物にするからね。ありがとう!」
健一は、トリトンに向かって眼鏡をかけながら大きな笑顔を見せた。そして海底からトリトンが拾ってきた光る宝石のような石をタオルで軽く吹き上げるとズボンのポケットに大事にしまった。

トリトンはあの祭りの日以来元気のなかった健一の笑顔を今日は沢山見られて嬉しくなった。
「今度は珍しい貝殻を見つけてあげるよ」
と頭から流れるしずくを軽く振り落としトリトンは笑った。
健一は何か言おうとしたが
「うん、楽しみにしてる。」
と返事をしただけだった。車のクラクションが聞こえた。松原に帰るときに乗せてもらう約束をしていた車だった。

「行かなくっちゃ、じゃ、今日はありがとう、トリトン」
健一は軽くトリトンの右手に握手した。トリトンはいきなりでちょっとびっくりした。
「俺も帰るな」
遠くで2人を見ていた
ヤスオもそういい、健一と一緒に車のほうに歩いていった。
「あ・・うん、またなーー」
トリトンは2人の後姿に大きな声をかけた。健一はいつまでもトリトンに手を振っていた。
その日、3人はそんな別れをした。


「え・・!健一が村を出たって?」
「・・昨日な。」
数日後、一平の漁の手伝いをした後、2人で片づけをしているときにヤスオがぽつりと応えた。
「どうして・・なんで教えてくれなかったんだっ!」
ヤスオはだまっていた。トリトンはずっと不安に感じていたことが的中したようなそんな顔になった。
「・・あの鏡のせい?神主さん責任を取って出て行ったのか?俺があの時」
「ばか!あれは仕方ないことだ!地震のせいさ・・責任だったら俺達全員にある!」
ヤスオはトリトンを本気で怒った。
「健一はそうじゃない・・・トリトンがそんな風に自分をせめるんじゃないかって最後まで気にしてた・・・言いたくなかったけど・・いいか、トリトン、あいつは神主さんの本当の子供じゃなかったんだ。」
ヤスオの言葉にトリトンはハッっとした。
「トリトン、健一のほんとのお父さんは死んじゃって、お母さんの連れ子としてこの村に来たんだ。でも、健一はお母さんのために一生懸命勉強してた。そして、神社の跡も継ごうとまじめに考えてたんだ。でも・・あいつのお母さんは街で育った人だったから・・あまりにも田舎の・・村での生活に耐えられなかったんだ。だから・・・健一を連れてまた街に帰っていった・・・神主さんはかわらず神社にいる!

トリトンは唇をかんだ。
健一のあの笑顔を忘れない様に目を閉じた。


それから2週間もしないうちにトリトンにまた辛い別れがきた。
「トリトン、俺も松原を出て行くことになった・・。」
静かにヤスオが言った。トリトンは信じられないという瞳でヤスオをじっと見た。
“せっかく友達になったのに。。なんで・・?俺があの鏡をわったから、神様はおれに罰(バチ)をあてているんだろうか?”トリトンはやりきれない思いで海を見た。
「俺はこの村も・・この海も・・好きだ。だから、行きたく・・!」
ヤスオの声が震え、最後の言葉を無理やり飲み込んだ。
「だけど、父ちゃんが海に戻りたがらない。町で暮らしたいっていってるんだ。だから、長野のばあちゃん家に引っ越すことになったんだ。母ちゃんの弟がやっている工場を父ちゃんと俺が手伝うって話しも決まった・・」

「・・・」
トリトンは何も言えなかった。
「これで少しは生活も楽になるかもなーーーっ」
ヤスオはいつもより高い声で無理にはしゃいだ。
「ここから遠いの?いついくの?」
トリトンはやっとの思いで聞いた。
「遠いなー、列車でいくつも乗り継いで5時間かかるらしい。海も見えない山の中さ・・。あ、でもリンゴが美味いらしいから、お前ん家にも送るって母ちゃんがいってた。一平さんには本当に世話になったって。出発はわかんないな、おれんち荷物少ないからさぁ、来いっていわれたらすぐ行けるんだぜぇ、信じられないだろう?笑っちゃうよな〜  ・・・だから・・・見送りはいいぜ、悪ぃな・・」
ヤスオはトリトンに口出しされないように一気に喋った。

トリトンは不満そうな顔をして
「俺、健一のときも何もできなかった・・」
と下を向いた。しばらく気まずい沈黙が続いた。
「…あのさ、トリトン、おれさ、お前に会えて・・」
ヤスオがトリトンの髪に軽く触れた。トリトンはドキッとした。

「すっげー楽しかった!!」
というと、ヤスオはすごい勢いでトリトンの頭をくしゃくしゃにかき回した。
トリトンの髪、それは一平と吾助以外触ったことがなかった。だれも気味悪がって触るどころか見るのも嫌そうだったからだ。トリトンは、いつまでも頭から手をはなさないヤスオに

「やめろーー!!はげる〜!」
といって、はしゃいだ。子供らしい笑顔だった。何か今まで心の底にあった思い石ころが水のあぶくとなって軽くはじけていく感覚だった。
「はげるかもな?なんたって一平さんの家系・・」
「じっちゃんの頭のことは言うなーー!」
二人とも声を立てて笑った。笑いながら少し泣いていた。
そして、これ以上話すと我慢しているものが堪えられなくなりそうで、二人はだまって海を見た。
しばらく、二人は防波堤に腰掛け、海が赤く染まるのを眺め、波の音を聞いていた。


数日後、トリトンは一平からヤスオの一家が村をでていったことを聞いた。
トリトンはだまって一平から離れ、一人空を見上げ「さよなら・・頑張れ、ヤスオ」と呟いた。

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