(2)
「じっちゃんはまだ浜にいるよ」
ぶっきらぼうにトリトンは言った。
「仕事の邪魔をしちゃいけないから・・・ここで待たせてもらっていいかな?」
「ああ・・」
トリトンは断りきれず、奥にヤスオを通し、お茶を出した。
ヤスオは濡れ縁のほうから海を見て、風に当たり気持ちよさそうに目を細めていた。
トリトンはそんな様子を見て、何か話しかけようかと思ったがやめた。
そして、鯵のたたきの下ごしらえをしようと取り掛かった。しばらく海を眺めていたヤスオは台所でトリトンが何か始めたのを興味深そうに見ていた。
(へー、あの子が料理するんだ・・)
あまりにじっと見ていたので、視線を感じトリトンが振り向いた。
「いてっ」
よそ見をした拍子に、トリトンは左手人差し指の先を、包丁で軽く切ってしまった。
「大丈夫?ばかだなー、魚さばいてるときによそ見するからだよ。」
ヤスオは立ち上がり、トリトンの横に立った。トリトンはばかと言われたことにちょっと頭にきて、切った指から出る血を軽く舌でなめ、
「ちぇ、お前が見てるからだよ」
とばつが悪そうに言った。
「見せてみろよ・・ああ、傷は大したことないな」
ヤスオはトリトンの手をとり、傷を確かめた後、調理途中のまな板を見た。
「なかなか、魚おろすの上手いな」
と言った。へへ・・トリトンはちょっと嬉しくなった。
「手を洗って絆創膏を張っておきなよ。あとはオレがやるから」
「え?」
ヤスオはさっさと手を洗うと手早く調理し始めた。
トリトンが何も口出しできないほど手際よく。
(こいつ何者なんだ・・?)と改めてヤスオを見、トリトンは素直に感心してしまった。

しばらくして一平が帰ってきた。
ヤスオは一平に漁に関することを教えて欲しいと頼みに来ていた。
唯でいい、手伝いをさせてもらい、その空いた時間に漁師としての知識を身につけられればいいと言った。
「松原にゃ、わしよりいい漁師もおるじゃろう?」
一平は仕事のあとのタバコをふかしながらヤスオに聞いた。
「・・松原の漁師は父ちゃんを馬鹿にした。それに父ちゃんは一平さんを漁師として尊敬していた。この辺の海のことは一平さんに聞けば間違いないって・・・。お願いします。オレ、なんでもしますから、ときどき手伝わせて下さい。足手まといだったらすぐ辞めます・・だから一度だけでも手伝わせて下さい。」
ヤスオは必死に頭を下げた。
トリトンは同じ年頃の少年のこの行為に驚き、彼に同情した。
「じっちゃん・・!オレからも頼むよ」


ヤスオが一平らの船に乗るようになり、しばらく過ぎた。ヤスオは覚えも早く、一平も吾助も助かっていた。また、トリトンも自分と同じくらい泳げる友達ができ、仕事のあと、飽きることなく競泳したり、深く潜る競争をして遊ぶ時間が増えてきた。

ヤスオは漁師であった父と、母、妹の4人で暮らしていた。
父親は急に海に深く潜りすぎて重度の潜水病になり、今は漁に出ることもできず、寝たり起きたりの生活で普通に勤めができる状態でもなかった。
公的な扶助も満足に受けられず、船を売ってなんとかそのお金で細々と生活していた。ヤスオはそんな苦しい家計をしっており、唯一残った古く小さな伝馬船に乗り、沖に出ては、素もぐりでさざえやあわびを取ったり、山に入っては自然薯をとってきたりして、家族の生活を助けていた。そのことを先日トリトンは一平から聞いた。
「父ちゃんは潜水病で仕事もろくにできないよ。あとは母ちゃんと妹だろう?オレ、勉強好きじゃないから高校には行かない。はやく漁師として一人前になって、みんなで暮らしていければいいんだ。」
ヤスオは何事もないように言っていた。


7月に入る頃、ヤスオとトリトンは並んで松原地区の防波堤の上を歩いていた。
潮風が吹いて心地よい。
「お、転校生だ。あの子、敷島神社の一人息子なんだ」
そういうとヤスオは、道の先を歩いていた色の白い茶色の髪の少年に声をかけた。
村の男の子はランニングに半ズボン、裸足の子が多いが、彼はアイロンの掛かった白いシャツに白い靴下を履き、どこか村の少年とは違う雰囲気を持っていた。
「おーい、健一〜」
その声に反応して、メガネをかけたその少年が振り向いた。
「やっちゃん?」
健一はヤスオに笑いかけたが、ヤスオの陰になっていたトリトンを見て、目を見張った。
「緑の髪・・」
トリトンは、周囲のこういう反応にはなれていた。が、いつもいいものではないと感じた。
「俺、そろそろ帰るよ」
ぼそっとヤスオに言った。そのとき、健一が二人に駆け寄ってきた。
「こんにちわ。僕、4月にこっちに引っ越してきた宮 健一っていうんだ。よろしくね。」
トリトンに向かってにっこり笑い、さらに興奮して言った。
「君のその髪、染めてるの?すごく綺麗だね〜。ビックリしたよ、街でもそんな綺麗な緑の頭した人っていなかったからね。」
トリトンは綺麗だと言われたことがなく、驚いたが、いきなり面と向かって言われたのでなんだかむかついた。
「髪の毛のことはいうな!」
にらむトリトン。健一はぽかんと口を開けていた。
「・・・健一ぃ、お前、初対面でいきなりそりゃないだろう?」
軽くため息ついて、ヤスオが言った。
「だって、僕・・本当のことを言っただけだよ。どこがいけないの?」
健一はヤスオに非難されたと思い、口を尖らせた。
「人にはそれぞれ事情があるんだ。」
「何だよ!それ?!」
今度は2人が言い争いを始めそうになったので、トリトンが冷静になった。
「やめろよ、喧嘩するなよ」
それを聞いた二人は“お前が言うか?”という顔で同時にトリトンを見た。
トリトンは苦笑し、
「・・オレ、猪の首村のトリトンって言うんだ・・よろしく」
と健一のほうを向き、頭をかいた。


それからごくたまに機会があると健一も加わり、3人で松原村の山に一緒に出かけることが多くなった。
「今日はやっちゃんが自然薯の見つけ方を教えてくれるって・・」
健一はトリトンのほうを見てメガネの奥から瞳をキラキラさせた。
道を外れ、山の中に入っていくと、身軽に進んむヤスオ、トリトンの後ろから、不慣れな足取りで滑ったり転びながら、息を切らせ、でも不満を言うことなく楽しそうについてきた。
ヤスオが緑の茂る草の中から「これだ」と自然薯の葉を見つけ出し、二人に見せた。
「この葉っぱを見失わないようにたどっていくんだ」
そして長く伸びた蔓をゆっくりたどり、時間は掛かったが蔦が出ている箇所を見つけ出した。
「ここを掘ればいいんだね!」
健一は率先して服が汚れるのもかまわず慎重に掘り出した。
「途中折らないように気をつけろよ」
ヤスオが言った。
“へー、ただのガリ勉君じゃないんだな〜、面白い奴”
トリトンは健一の新たな一面をみて、好感をもち、徐々に心を開いていった。


9月になった。
2年に一度、奇数年に3村合同で開く村祭りが近づいた。
祭りは里村からみこしが出て、松原村の敷潮神社に奉納し、その後、境内近くの広場で子供〜大人の相撲大会が開かれた。
最後に猪の首村、松原村の漁船が大漁旗を目いっぱい飾りパレードして終わるというものだった。
トリトンはヤスオと健一から一緒に行こうと誘いを受けていた。
しかし、ためらっていた。トリトンは思い出していた。
以前、一平が幼いトリトンを神社に連れて行ったときのみんなの自分を排除するような瞳・・。それよりも耐えられなかったのは、トリトンが一人でいるときに聞こえてきた、あきらかに一平を非難する一部の大人の声だった。
トリトンはいたまれず走ってその場を離れた。6kmちかい山道を猪の首村に帰るため一人走り、歩いた。涙が頬を伝っていた。
(今日はみんな祭りでいない・・)
そのことが不思議と安堵感を与え、泣きながらひたすら歩いた。

                

遠くに賑やかな船団パレードの音楽が聞こえた。
村についてから、トリトンは猪の首岬からぼんやりと水平線の彼方を見つめていた。
暗くなり家に帰ったとき、すでに一平も帰っていた。トリトンを探し回り、心配し汗だくになっていた様子だった。一平はトリトンの姿を見て安堵し、何も言わずいなくなったことに怒りを覚えたが、彼の顔に残る涙の跡を見て、「今日は疲れたな・・」と頭を軽く撫でただけだった。それから一度も一平とトリトンは祭りに行かなかった。


数日考えたが、トリトンは行くことにした。
(俺が行かないんじゃじっちゃんもずっと祭りに参加できない。これがいい機会だ。二人もいるし、オレもあのときのオレじゃない・・、行ってみよう)

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