(1)

黒潮の恵みを受ける小さな漁村、そこに猪の首村があった。

村のシンボルは左端に位置する猪の首岬であった。
また、村の右側、大きな山により隔てられた地区を松原村といい、猪の首村、松原村によって海を隔てられた奥の地区を里村といった。

猪の首村、岬の上り口近くに小さな居を構える漁師・一平と12歳の少年トリトンがいた。



五月晴れの海も穏やかな午後、白い砂浜の小さな漁船の影に今漁からもどった人影がいくつか固まりになっていた。
その中に一人小さな影があった。彼の頭に陽があたると美しい緑の髪が目に入る。彼は魚網をたくみにまとめて船から降りてきた。
「じっちゃーん、網はここにおいていていいの?」
「ああ、ちょっと破けたところがある、あとで直さなにゃならんから、そこでいい」
一平、吾助、トリトンはそれぞれの役割をてきぱきとこなした。
「トリトン、これは今夜の晩のおかずだ。ここはもういいから先に帰ってろ」
吾助がまだ生きている鯵数匹を籠にいれてトリトンに渡した。
「・・・たたきでいい?」
「おう、この前教えたとおりにやってみろ」
網を手繰りながら一平は苦笑した。
「まかしといて。じゃ、先に上がるね、お疲れ様!」
トリトンはこの前失敗した鯵のたたきを今度こそうまく作ってやろうとはりきって家のほうにかけて行った。
そんな後姿を一平は横目で見て微笑んだ。

しばらくして、トリトンの姿が小さくなると離れて作業していた漁師仲間の話す声が聞こえた。
「・・ああしてみると、普通の子供なんだがな。」
「いいや、あの髪の色は普通じゃねえ、・・オトヨばあも言っとったろうが。関わるとロクなことがねえってな。」
そのささやきが聞こえ、網を直していた一平は顔をしかめた。

トリトンは、村の中で、特別な存在として一目置かれていた。
彼は、時化た夜、安易に人の近づくことのできない猪の首岬の洞窟に置き去りにされていた赤子であり、さらに緑の髪を持つ子供だったため、大人たちは彼を“海人の子”と恐れ、気味悪がっていた。
トリトンは、そんな大人たちの視線や冷たい言葉を浴びながらも、大らかに逞しく成長した。
それは一平とともに生活をし、一平の背中を見て育った彼には、自然に身についた生き方だった。

「トリトンのことを言ってるんじゃなかろうな?!」
一平が作業の手を止め、声のした方に強い視線を投げた。
「・・いや、何、・・・」
「一平さん、悪気はないんだ・・ついな。。わ・・わしら先に上がるで」
争うことを避けるように、彼らはそそくさと立ち去って行った。
「トリトンはワシらの手伝いをしてくれるいい子じゃ。いい漁師になってくれる・・。」
一平が彼らに聞こえるように強い口調、しかし独り言のように口にした。
「一平・・」
「心配するな、吾助、・・いや、お前にも嫌な思いさせちまってるな」
吾助は何も言わず一平に軽く笑いかけた。

トリトンは勢いよく家に駆け込んだ。
そのとき、入り口で何かにぶつかり、魚もろとも尻餅をついた。
「痛ってぇー」
「おい、大丈夫か?」
影が動いた。
「誰だよ、んなところでボーっと立ってんなよ!」
明るい外から薄暗い家の中に入り、すぐ目が慣れなかったが、自分と同じ背格好の少年がいることにトリトンは気がついた。
「魚がよごれちまったな」
その少年は散らばり、跳ねている魚を一つ一つ手に取ると丁寧に汚れを落とし、籠に入れ、トリトンに差し出した。
「・・誰?うちになんか用?」
トリトンは左手に籠を受け取り、立ち上がって半ズボンの埃を右手で軽く落とした。
「ここは一平さんの家だろう?声をかけたんだけど、返事が聞こえなかったから・・戸口が空いたままだったから悪いと思ったんだけど、ちょっと中に入らせてもらったところだったんだ。・・・俺は隣村の松原に住んでいる新川康夫だ。」
「シンカワヤスオ・・」
トリトンは、その名前に聞き覚えがあった。
近くにありながら、猪の首村と松原村はそれぞれに小さな小学校があり、また大きな山が2つの村を隔て、子供ではなかなか行くことができないため、ほとんど交流はない状態だった。
ただ、猪の首村、松原村、里村の3村一緒に開かれる年1度の運動会と2年に1度のお祭りがあり、そのときだけ子供たちも他の村の子供たちを知る機会があった。
トリトンは去年の運動会のときに、彼の名前を覚えた。
「韋駄天のヤス・・」

トリトンは猪の首村の子供の中で一番足が速かったが、大人たちがトリトンを運動会の最後の花形種目である年代別リレー(60代〜10代までの代表によるリレー)のアンカーにすることを良しと思っていなかった。
だが、昨年だけはここ数年連続で負けていたので、運動会で初めてアンカーに選ばれた。
そして、最後、康夫を振り切って一位を勝ち取った。
(あと20mゴールが先だったら・・追い越されていたかも・・)
トリトンは後でそう思った。
「余裕こいてVサインなんかするからじゃ!」
一平からもこっぴどく怒られた。
ヤスオはトリトンにも負けない運動神経をもった少年だった。
→(2)